道の駅 那須与一の郷
那須与一伝承館
那須与一
 11歳の時、那須岳(茶臼岳)にて弓の稽古中、那須温泉神社に必勝祈願をしにきた源義経と出会う。このとき父の資隆が、兄の十郎為隆と与一を源氏の兵として従軍させることを義経と約束したとのこと。
 1185年になると、父が義経と交わした約束通り、与一と兄の為隆は源氏の兵として「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」に参加します。ここで登場するのが、与一の逸話でも特に有名な「扇の的伝説」です。

 元暦2年(1185年)2月、源義経は四国屋島に陣をしいていた平氏を背後から攻めたて、慌てた平氏は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。
 夕暮れになったころ、沖から立派に飾った一艘の小舟が近づいて来ました。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。
義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。
 与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。
 時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。
 (中略)
 与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。
 与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動した。
 屋島の戦いの後、平氏は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。
 
 また、与一は文治3年(1187年)、それまでに平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったということです。